神の愛〜独り子を賜ったほどに

説教日:2017年5月14日
聖書箇所:ヨハネの福音書3章14節ー17節


 本主日の礼拝は伝道礼拝となりますので、普段お話ししている黙示録からのお話はお休みして、ヨハネの福音書3章14節ー17節に記されていること、特に、16節に記されている、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

というみことばを中心としたお話をいたします。
 このみことばの前半では、

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

と言われています。ギリシア語の原文では、これには理由や説明を表す接続詞(ガル)があって、前の部分とつながっていることを示しています。このみことばは、その前の部分、特に、14節ー15節に記されている、

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

というイエス・キリストの教えを受けて、16節で、ヨハネがそれをさらに説明しています。
 このつながりを見るために、14節で、

 モーセが荒野で蛇を上げた

と言われていることを見てみましょう。それは旧約聖書の民数記21章4節ー9節に記されています。
 そのみことばを引用する前に、この21章4節ー9節に記されていることが起こった時に至るまでのイスラエルの民の歩みのことを要約してお話しします。もちろん、そこに記されていることと関係があることの要約です。
 エジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民は、神である「」がモーセをとおして遂行された贖いの御業によって、奴隷のから解放されました。その時、イスラエルの民は、「」が自分たちとともにおられて、なされた数々の御業、その中には紅海の水を分けて、イスラエルの民を通らせてくださった御業もありますが、そのような御業を目の当たりにして、どのような状況にあっても「」を信じ、信頼して待ち望むべきことを学んでいたはずです。
 そのイスラエルの民は、約束の地へに入るために荒野を旅している間に、困難な状況に直面しましたが、そのたびに、「」に対する不信をつのらせ、モーセやアロンに不満をぶつけました。彼らは、「」が自分たちをエジプトから連れ出したのは、自分たちを荒野で滅ぼすためであったと言い続けました。出エジプトの贖いの御業は「」の自分たちに対する悪意によるものであったというのです。実際、イスラエルの民は、モーセやアロンを殺そうとさえしたことがあります(出エジプト17章4節)。
 それでも「」はイスラエルの民のために、天からマナを降らせ、荒野に水が湧くようにしてくださって、真実に、彼らを支え続けてくださいました。
 民数記13章ー14章には、「」がイスラエルの民を、いよいよ約束の地に導き入れてくださろうとした時のことが記されています。この時も、14章3節に記されているように、彼らは「」に対する不信をつのらせて、モーセやアロンに、

 なぜは、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。

と不満を述べました。その少し後の22節には、この時、「」が、イスラエルの民について、

エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みた

と言われたことが記されています。イスラエルの民は、これまでに「十度も」「」への不信を募らせて、「」を試みたというのです。この「十度」は文字通りの「十度」である可能性がありますが、聖書では「」が完全数の一つですので、比喩的に「もう十分なほど」ということを表す可能性もあります。
 この時、「」はイスラエルの民を滅ぼしてしまうことはされないで、エジプトを出たイスラエルの民の第一世代の者は、「」を信じたヨシュアとカレブを除いて、約束の地に入ることができないというさばきを宣告されました(22節ー24節)。
 この後も、イスラエルの民は何度か「」に対する不信をつのらせ、モーセやアロンに不満をぶつけました(16章、20章1節ー13節)。21章4節ー9節に記されていることは、これらのことの延長線上にあります。
 これらのことを踏まえて21章4節ー9節に記されていることを見てみましょう。そこには、

彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

と記されています。
 この時、モーセは「エドム」に、自分たちを通らせてくれるよう願いましたが、拒否されました。それで、イスラエルの民は「エドム」を迂回して進んだのですが、民はそれに我慢できなくなって不満を爆発させました。そして、

なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。

と、先ほどお話しした、「神とモーセ」への不満のことばを投げつけました。ちなみに、ここにアロンが出てこないのは、アロンがこの時より前に召されているからです(20章23節ー29節)。
 イスラエルの民はさらに、

 私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。

と言っています。彼らが「このみじめな食物」と言っているのは、「」がご自身に逆らい続けるイスラエルの民を真実に養い続けてくださるために、毎日、天から降らせてくださっていたマナのことです。彼らはそのマナを「飽き飽きした」と言ってさげすんでいます。この「飽き飽きした」と訳されていることば(クーツ)は「ひどく嫌う」こと「うんざりする」ことを表します。
 6節には、

そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。

と記されています。「燃える蛇」は、おそらく、(七十人訳の「オフェイス[オフィス「蛇」の複数形]」が示している)「毒蛇」のことで、古くから、シナイの砂漠には毒蛇の危険があったことが知られていたようです。「燃える」ということばが表していることについてはいくつかの見方がありますが、おそらく、毒蛇に噛まれたときの燃えるような炎症を指しているということでしょう。

 蛇は民にかみつき

と言われているときの「かみついた」は強調形(ピエル語幹)で、繰り返し、すなわち、次々とかみついたことを示しています。それで、

 イスラエルの多くの人々が死んだ。

と言われています。
 その時、イスラエルの民は自分たちの罪を告白して、モーセに自分たちのために「」に祈ってくれるよう願いました。それでモーセが民のために「」に祈ると、「」はモーセに、

 あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。

と言われました。そして、最後の9節には、

モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

と記されています。
 このように、イスラエルの民は、試練に会う度に、「」への不信感を募らせ、「」が自分たちをエジプトの奴隷の状態から解放してくださったのは、自分たちを荒野で滅ぼすためのことだと、繰り返し、言い続けました。また、「」が自分たちを荒野で養い育ててくださるために、毎日、天から降らせてくださったマナという特殊な食べ物を、さげすみました。それは、「」が一方的な恵みによって備えてくださった救いと救いの手段をさげすみ続けることであり、救われることを拒否することにほかなりません。「」が「燃える蛇」を送って、イスラエルの民をさばかれたのは、彼らが選んだのが滅びに至る道であったことを指し示すことでもありました。
 これは、イスラエルの民が「」に対する不信をつのらせて、不満をぶつけた最後の記録です。ほどなく、イスラエルの民はモアブの草原に入り、荒野の旅を終えることになります。結局、イスラエルの民はその旅路にある間、「」に対する不信をつのらせ、「」と「」のしもべに不満をぶつけ続けたのです。
 「」がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったことを少し違う観点から見てみましょう。
 申命記7章6節ー8節に、

あなたの神、は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

と記されています。
 「」がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったのは、イスラエルの民がほかの民より優れていたからではありませんでした。ただ「」がそのような民を愛してくださったからでしたし、父祖たちへの誓いを守られたからです。しかし、イスラエルの民は荒野の旅路にある間、繰り返し、そして最後まで、この「」の愛を踏みつけてしまいました。
 そのような中にあっても、なお、「」は、ご自身に対する不信をつのらせ続けて、滅び去ろうとしているイスラエルの民のために、救いの道を示してくださいました。自らの罪のへのさばきのために毒蛇に噛まれて死のうとしているイスラエルの民は、ほかに何もできませんが、「」が備えてくださった「青銅の蛇」を見上げることはできました。そして、見上げた者は「生きた」と記されています。
 このことによって「」は、ご自身が備えてくださる救いがどのようなものであるかを示してくださいました。結論的に言いますと、ローマ人への手紙5章20節に記されている、

 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

ということです。


 イエス・キリストはヨハネの福音書3章14節ー15節で、この出来事を受けて、

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

と教えておられます。

 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

と言われているときの「(上げられなければなりません」ということばは(いわゆる「神的デイ」で)、それが神さまのみこころであるので、必ず、実現しなければならないということを示しています。「人の子」ということばは、神さまが旧約聖書をとおして約束してくださっていた贖い主、メシアのことです。その、

 人の子もまた上げられなければなりません。

と言われているときの「上げられる」ということは、ヨハネの福音書では、十字架につけられて死ぬことを意味しています。たとえば、12章32節には、

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

というイエス・キリストの教えが記されています。続く33節には、このことが、

 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

と説明されています。
 これらのことが背景となって、ヨハネの福音書3章16節には、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と記されています。
 ここには「実に」ということばはありませんが、文の構成の仕方によって、神さまの愛が強調されています。
 原文のギリシア語の順序としては、まず、

 このようにして(フートース)、神は世を愛された

と言われています。そして、その愛がどのような愛であるかが、

 そのひとり子をお与えになったほどに

と説明されています。これは確かな結果をもたらすことを表すことば(ホーステ)によって導入されて、人間的な言い方になりますが、神さまの愛が単なる気持ちや思いで終わるものではなく、実に、「そのひとり子をお与えになったほど」の愛であったことが示されています。神さまの愛が「ひとり子をお与えになった」という現実的な結果をもたらしたということです。
 ここでは神さまが愛してくださったのは「」であると言われています。これは、この前の14節ー15節で、イエス・キリストが、

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

と教えておられることを受けてのことです。
 このイエス・キリストの教えを聞いていたのは1節に、

 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

と記されているニコデモです。ユダヤ人にとっては、このイエス・キリストの教えは、その昔、「」が愛してくださって、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったイスラエルの民と血のつながりのあるユダヤ人の救いのことを述べているように聞こえます。しかし、ヨハネはこの3章16節で、神さまが「そのひとり子をお与えになったほどに」愛してくださったのはユダヤ人という一つの民族に限られているのではなく、「」であるということを示しています。
 それは、旧約聖書に示されていたことに沿うことです。
 ユダヤ人の血肉の父祖はアブラハムで、紀元前2000年ー1825年頃の人です。創世記12章3節には、「」がアブラハムに、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と約束してくださったことが記されています。神さまが与えてくださった「ひとり子」イエス・キリストは、アブラハムの子孫として来られたメシアで、「」がアブラハムに与えてくださった「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福を受けるようになるという約束を実現してくださるために来られました。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

と言われていることには、このような歴史的な背景があり、「」が約束してくださったことを、真実に、守ってくださり、実現してくださっていることが示されています。
 「」ということばによって、さらにもう一つのことが示されていますが、それについては、後ほどお話しします。

 神さまが、

 実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

と言われているときの「ひとり子」と訳されていることば(ホ・ヒュイオス・ホ・モノゲネース)は、「一人にして唯一の御子」をあらわしていて、神さまがこよなく愛しておられる御子いう意味合いを伝えています。同じヨハネの福音書1章18節では、この御子のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われています。「ひとり子の神」ということばも「ふところにおられる」ということばも、御子が父なる神さまの愛を一身に受けておられることを表しています。3章16節では、神さまはそのような御子を「お与えになったほどに、世を愛された」というのです。
 そして、16節では、その目的のことが、

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と言われています。
 ここには、「滅びる」ということが出てきます。これは、すべての人が造り主である神さまに対して罪を犯したために、そして、実際に罪を犯しているために、「滅びる」べき者となってしまっているということを受けています。ローマ人への手紙6章23節には、

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されています。
 先ほど、「」ということばによって、さらにもう一つのことが示されていると言いましたが、「」ということばは、「」を構成しているすべての人が造り主である神さまに対して罪を犯したし、犯しているという特質をも表しています。そして、神さまがこよなく愛しておられる「ひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われていることは、このことにかかわっています。
 このことを理解するために、旧約聖書において、「」がイスラエルの民のために備えてくださった「青銅の蛇」にはどのような意味があったのかを考えてみたいと思います。
 旧約聖書の創世記3章では、14節において最初の女性エバを誘惑した生き物として「のろわれたもの」でしたし、15節においては、その罪に対するさばきによって滅ぼされることになっていました。また、レビ記11章41節ー44節においては、汚れたものとされています。
 このような意味をもっている「」の像が造られて「旗ざおの上につけ」られ、掲げられたのです。そして、この「旗ざおの上につけ」られ、掲げられた「」の像を仰ぎ見た者は滅びを免れて生きたのです。
 これは、十字架につけられたイエス・キリストを指し示す「地上的なひな型」、視聴覚教材でした。
 十字架につけられたイエス・キリストについて、新約聖書のコリント人への手紙第二・5章21節には、

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。また、ガラテヤ人への手紙3章13節には、

 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

と記されています。イエス・キリストは罪のない方であり、罪を犯したことのない方でしたが、「私たちの代わりに罪とされました」。それによって、私たちを罪の結果である死と滅びから贖い出してくださいました。
 また、イエス・キリストは、私たちの罪に対するのろいを受けて、ご自身が「のろわれたものとなって」くださいました。それによって、私たちを罪ののろいの下から贖い出してくださいました。
 このように、神さまがこよなく愛しておられる「ひとり子をお与えになった」のは、その「ひとり子」を「私たちの代わりに罪とされ」るためでしたし、「私たちのためにのろわれたもの」とされるためでした。
 御子イエス・キリストは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わって受けてくださるために十字架につけられました。
 これを神さまの側から見ると、神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りを、ご自身がこよなく愛しておられる「ひとり子」に注いで、私たちの罪への刑罰を執行されました。それによって、私たちの罪をまったく清算してくださり、私たちを罪の結果である死と滅びから贖い出してくださいました。
 ヨハネの福音書3章16節で、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と言われていることには、このようなことが含まれています。

 先ほどお話ししましたように、

  モーセが荒野で蛇を上げたように、

と言われていることは、「荒野で」神である「」に対する不信をつのらせ、「」の愛を踏みにじり続けたイスラエルの民の救いのために「」がモーセに命じて青銅の「」を旗竿に掲げたことを指しています。この荒野のイスラエルの民は、また、神さまに対して罪を犯して、神さまの愛を踏みにじっている「」を指し示す「地上的なひな型」、視聴覚教材でもありました。みことばに記されている荒野のイスラエルの民のことを読んでいくと、「」に対すあまりの不信に驚かされます。けれども、かく言う、自分自身の姿もそれと同じです。荒野のイスラエルの民の姿は、私たちを映し出す鏡のようなものです。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

と言われているときの「」は、神さまの愛を踏みにじっている「」です。神さまはその「」の救いのために、ご自身がこよなく愛しておられる「ひとり子」をお与えになりました。そして、私たちに代わって罪とされ、のろわれたものとなってくださった「ひとり子」を十字架に上げて、掲げてくださいました。
 「」のさばきを受けて滅びようとしていた荒野のイスラエルの民の中で、「」が掲げてくださった青銅の「」をただ仰ぎ見た者たちは生きるようになりました。それと同じように、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見る人は死と滅びの中から贖い出されて、「永遠のいのち」に生きるようになります。

 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と言われているときの「御子を信じる」ということは、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見ることに当たります。
 荒野において自らの罪に対するさばきを受けて、滅びようとしていたイスラエルの民は、ただ「」が掲げてくださった青銅の「」を仰ぎ見ることができただけでした。「」がご自身に背いて、その愛を踏みにじり続けてきたイスラエルの民のためにすべてを備えてくださっていたので、彼らはそれを受け入れただけです。
 それと同じように、私たちも、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見ることができるだけです。私たちが死と滅びから贖い出されて、永遠のいのちに生きるようになるために必要なことはすべて神さまが御子によって備えてくださっています。それで、私たちにできることは神さまが与えてくださった「ひとり子」を受け入れることだけです。
 また、私たちが、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見ることは、一度限りのことではありません。

 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

と言われているときの「信じる」ということは現在時制(の分詞)で表されていて、いつもそうすることを表しています。私たちは、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見る度に、ヨハネが、

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

とあかししている神さまの圧倒的な愛に触れることができるのです。そして、その愛に触れ、その愛に生かされている人のうちには愛が生み出され、その人は愛のうちを歩むようになります。そのヨハネが記したヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。


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