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説教日:2017年5月14日 |
イエス・キリストはヨハネの福音書3章14節ー15節で、この出来事を受けて、 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。 と教えておられます。 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 と言われているときの「(上げられ)なければなりません」ということばは(いわゆる「神的デイ」で)、それが神さまのみこころであるので、必ず、実現しなければならないということを示しています。「人の子」ということばは、神さまが旧約聖書をとおして約束してくださっていた贖い主、メシアのことです。その、 人の子もまた上げられなければなりません。 と言われているときの「上げられる」ということは、ヨハネの福音書では、十字架につけられて死ぬことを意味しています。たとえば、12章32節には、 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 というイエス・キリストの教えが記されています。続く33節には、このことが、 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と説明されています。 これらのことが背景となって、ヨハネの福音書3章16節には、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と記されています。 ここには「実に」ということばはありませんが、文の構成の仕方によって、神さまの愛が強調されています。 原文のギリシア語の順序としては、まず、 このようにして(フートース)、神は世を愛された と言われています。そして、その愛がどのような愛であるかが、 そのひとり子をお与えになったほどに と説明されています。これは確かな結果をもたらすことを表すことば(ホーステ)によって導入されて、人間的な言い方になりますが、神さまの愛が単なる気持ちや思いで終わるものではなく、実に、「そのひとり子をお与えになったほど」の愛であったことが示されています。神さまの愛が「ひとり子をお与えになった」という現実的な結果をもたらしたということです。 ここでは神さまが愛してくださったのは「世」であると言われています。これは、この前の14節ー15節で、イエス・キリストが、 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。 と教えておられることを受けてのことです。 このイエス・キリストの教えを聞いていたのは1節に、 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。 と記されているニコデモです。ユダヤ人にとっては、このイエス・キリストの教えは、その昔、「主」が愛してくださって、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださったイスラエルの民と血のつながりのあるユダヤ人の救いのことを述べているように聞こえます。しかし、ヨハネはこの3章16節で、神さまが「そのひとり子をお与えになったほどに」愛してくださったのはユダヤ人という一つの民族に限られているのではなく、「世」であるということを示しています。 それは、旧約聖書に示されていたことに沿うことです。 ユダヤ人の血肉の父祖はアブラハムで、紀元前2000年ー1825年頃の人です。創世記12章3節には、「主」がアブラハムに、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と約束してくださったことが記されています。神さまが与えてくださった「ひとり子」イエス・キリストは、アブラハムの子孫として来られたメシアで、「主」がアブラハムに与えてくださった「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福を受けるようになるという約束を実現してくださるために来られました。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 と言われていることには、このような歴史的な背景があり、「主」が約束してくださったことを、真実に、守ってくださり、実現してくださっていることが示されています。 「世」ということばによって、さらにもう一つのことが示されていますが、それについては、後ほどお話しします。 神さまが、 実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 と言われているときの「ひとり子」と訳されていることば(ホ・ヒュイオス・ホ・モノゲネース)は、「一人にして唯一の御子」をあらわしていて、神さまがこよなく愛しておられる御子いう意味合いを伝えています。同じヨハネの福音書1章18節では、この御子のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われています。「ひとり子の神」ということばも「ふところにおられる」ということばも、御子が父なる神さまの愛を一身に受けておられることを表しています。3章16節では、神さまはそのような御子を「お与えになったほどに、世を愛された」というのです。 そして、16節では、その目的のことが、 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と言われています。 ここには、「滅びる」ということが出てきます。これは、すべての人が造り主である神さまに対して罪を犯したために、そして、実際に罪を犯しているために、「滅びる」べき者となってしまっているということを受けています。ローマ人への手紙6章23節には、 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 と記されています。 先ほど、「世」ということばによって、さらにもう一つのことが示されていると言いましたが、「世」ということばは、「世」を構成しているすべての人が造り主である神さまに対して罪を犯したし、犯しているという特質をも表しています。そして、神さまがこよなく愛しておられる「ひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われていることは、このことにかかわっています。 このことを理解するために、旧約聖書において、「主」がイスラエルの民のために備えてくださった「青銅の蛇」にはどのような意味があったのかを考えてみたいと思います。 旧約聖書の創世記3章では、14節において最初の女性エバを誘惑した生き物として「のろわれたもの」でしたし、15節においては、その罪に対するさばきによって滅ぼされることになっていました。また、レビ記11章41節ー44節においては、汚れたものとされています。 このような意味をもっている「蛇」の像が造られて「旗ざおの上につけ」られ、掲げられたのです。そして、この「旗ざおの上につけ」られ、掲げられた「蛇」の像を仰ぎ見た者は滅びを免れて生きたのです。 これは、十字架につけられたイエス・キリストを指し示す「地上的なひな型」、視聴覚教材でした。 十字架につけられたイエス・キリストについて、新約聖書のコリント人への手紙第二・5章21節には、 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 と記されています。また、ガラテヤ人への手紙3章13節には、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。 と記されています。イエス・キリストは罪のない方であり、罪を犯したことのない方でしたが、「私たちの代わりに罪とされました」。それによって、私たちを罪の結果である死と滅びから贖い出してくださいました。 また、イエス・キリストは、私たちの罪に対するのろいを受けて、ご自身が「のろわれたものとなって」くださいました。それによって、私たちを罪ののろいの下から贖い出してくださいました。 このように、神さまがこよなく愛しておられる「ひとり子をお与えになった」のは、その「ひとり子」を「私たちの代わりに罪とされ」るためでしたし、「私たちのためにのろわれたもの」とされるためでした。 御子イエス・キリストは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わって受けてくださるために十字架につけられました。 これを神さまの側から見ると、神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りを、ご自身がこよなく愛しておられる「ひとり子」に注いで、私たちの罪への刑罰を執行されました。それによって、私たちの罪をまったく清算してくださり、私たちを罪の結果である死と滅びから贖い出してくださいました。 ヨハネの福音書3章16節で、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と言われていることには、このようなことが含まれています。 先ほどお話ししましたように、 モーセが荒野で蛇を上げたように、 と言われていることは、「荒野で」神である「主」に対する不信をつのらせ、「主」の愛を踏みにじり続けたイスラエルの民の救いのために「主」がモーセに命じて青銅の「蛇」を旗竿に掲げたことを指しています。この荒野のイスラエルの民は、また、神さまに対して罪を犯して、神さまの愛を踏みにじっている「世」を指し示す「地上的なひな型」、視聴覚教材でもありました。みことばに記されている荒野のイスラエルの民のことを読んでいくと、「主」に対すあまりの不信に驚かされます。けれども、かく言う、自分自身の姿もそれと同じです。荒野のイスラエルの民の姿は、私たちを映し出す鏡のようなものです。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 と言われているときの「世」は、神さまの愛を踏みにじっている「世」です。神さまはその「世」の救いのために、ご自身がこよなく愛しておられる「ひとり子」をお与えになりました。そして、私たちに代わって罪とされ、のろわれたものとなってくださった「ひとり子」を十字架に上げて、掲げてくださいました。 「主」のさばきを受けて滅びようとしていた荒野のイスラエルの民の中で、「主」が掲げてくださった青銅の「蛇」をただ仰ぎ見た者たちは生きるようになりました。それと同じように、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見る人は死と滅びの中から贖い出されて、「永遠のいのち」に生きるようになります。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と言われているときの「御子を信じる」ということは、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見ることに当たります。 荒野において自らの罪に対するさばきを受けて、滅びようとしていたイスラエルの民は、ただ「主」が掲げてくださった青銅の「蛇」を仰ぎ見ることができただけでした。「主」がご自身に背いて、その愛を踏みにじり続けてきたイスラエルの民のためにすべてを備えてくださっていたので、彼らはそれを受け入れただけです。 それと同じように、私たちも、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見ることができるだけです。私たちが死と滅びから贖い出されて、永遠のいのちに生きるようになるために必要なことはすべて神さまが御子によって備えてくださっています。それで、私たちにできることは神さまが与えてくださった「ひとり子」を受け入れることだけです。 また、私たちが、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見ることは、一度限りのことではありません。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と言われているときの「信じる」ということは現在時制(の分詞)で表されていて、いつもそうすることを表しています。私たちは、神さまが十字架の上に掲げてくださった「ひとり子」を仰ぎ見る度に、ヨハネが、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 とあかししている神さまの圧倒的な愛に触れることができるのです。そして、その愛に触れ、その愛に生かされている人のうちには愛が生み出され、その人は愛のうちを歩むようになります。そのヨハネが記したヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 と記されています。 |
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